僕のひとつだけ たったひとつ どうか消えないでね

 

以前は大丈夫だったことがひとつ明確にはっきりとだめになってしまった。撮影可能のライブを好きになることができなかった。なるべくこのことをネガティブでなく昇華したいけど難しくてまた絶対にこの日感じたことを忘れてはいけないと思ったから残しておくけど気持ちの良い話にはならなかった。

 

はじめに違和感を感じたのは去年の10月のすごろく公演。さまざまな司令のあるすごろくのマスの中に「一曲のライブの間撮影可能」というものがあり、その日は結果的にやめらんない!とまらない!、思考回路ショート寸前、隕石に願いをの3曲の撮影可能ライブが行われた。アイソトープラウンジの後ろのほうでたくさんの人の背ごしにステージを見ていたのは全然良くて、後ろのほうだし古くて画質の悪いiPhoneしか持ち合わせておらずもういいや〜とやめとまの途中で早々に撮影をやめた。みんながみんな一斉にカメラを構えじっとして、そのカメラ一つひとつに向かってパフォーマンスをするメンバーがいて、その空間がいたく奇妙なものに感じた。アイドルからファンへ、人と人との心の受け渡しのあいだに一枚レンズが入っただけで、かんたんに正確にきれいに記録に残すことができて、それを他者に気軽に共有することができる。それが良いことだというのは頭ではわかる。ただ自分の記憶への執着が異様に強くあまりにも大事にしすぎているためにどうしてもそのことを受け入れることができなかった。とくに隕石に願いをはあの人たちの手づくりのもの、お手紙を手渡しで差し出してもらうような感覚で、感情の意味合いの大きな曲だと思っているので、その曲を撮影可能です!レアだよ!と選ばれたことにかなりショックを受けた。ショックを受けたことにさらにショックを受けて、あまり考えないようにして、別のマスに止まったときの記憶を辿って帰った。前体制のときは大して気にならず考えもしなかったのは、今の歌を言葉を届けるライブが当たり前になる前だったからかもしれない。自分の受け取り方も変化している。

 

 

3/4「GAY LIVE 激情」以前にも行われていたAKIBAカルチャーズ劇場での撮影可能ライブが復活。現体制では初めてのことだった。2023年「攻める!押す!勝つ!整いました!」行け行けゴーゴーなあの人たちの次の目標は、感染症が落ち着いてきて取り戻しつつあるライブの日常のなかで5月1日結成12周年のワンマンライブを「埋めたい」ということ。2017年に「絶対に埋まらないワンマンライブ」という冠をつけたのと同じ新宿BLAZEをソールドさせたいという気持ちはすごく嬉しくて、そのプロモーションのためになんでもできることはするべきだし、自分も何か力になりたい!と思った。良い写真や動画を撮って拡散させてねという「プロモーションに活かせる」大義名分を出されるとわたしは絶対にあらがうことができない。2019年のZeppTokyoワンマン前に行われた2日間で7本のライブ、あのときも限定で全編撮影可能ライブで、その7本目の最後に「撮影はここまでで、最後の一曲だけはあなたの目に焼き付けてください」と歌われた耳をすませばは格別だった。あれは本当に意義のある最高のプロモーションだったしその最後の耳すままで含めて、大好きだった!

今回、たまたまチケットの抽選の運も良く、一番前で見れることは決まっていたから、あの人たちがまた一生懸命用意してくれた企画・機会をなるべく楽しもうと思い持っているチェキカメラを持って行ったし動画をどう撮るかを考えて行った。早めに秋葉原に着いて多めにチェキフィルムを買った。開場から開演まで45分もあったからゆっくり待てると思いきやチェキのフラッシュがつかないように設定したり試し撮りをしたりしていたらすぐ時間になってしまった。カルチャーズ劇場は着席なのもあってステージが低くても最前だとかなり見上げることになる。大好きな構図。気合い十分の耳をすませばのあとにさっそくやめらんない!とまらない!が撮可であった。「メドレーのはじめの一曲(やめとま)だけが撮影可能です、そのあとは撮影をやめて、自分の目で見て、心に記録してね」このようなことを公演中何度も言っていた。

やめとまは推しカメラでずっとぺいちゃんだけを追って動画を撮った。カメラを構えながら目ではステージを見るようにしていたけど、気がつくとフレームアウトしてしまうし、常に傍らにカメラを構えているという意識があった。映像を見返したらそこがブレブレで結局どっちつかずのものになっていた。これでは意味がないなー次の機会にはちゃんとやるぞ、と反省していたら次の撮影可能曲はBAKADEMO AHODEMO。今度はiPhoneを構えて画面から目を離さずカメラ越しにぺいちゃんを見た。これも見返したら、ほぼちゃんと撮れていた。簡単に、そのときにしかないライブのぺいちゃんのことを記録に残すことができた。最前だから視界は良く遮るものは何もない。これを見返せばいつでも何度でもこの日を再生することができるのだろう。

だから何だというんだろうか。この4分あまりのきれいに撮れた映像は、目の前に居続けている好きな人を生身の目で見ることを選択せずに、小さな画面越しに見ている自分がいたという揺るぎない証拠でもあった。そのことに気づいて絶望したのに、好きな人が映っているから、いまも削除できないでいる。

事前情報で、おそらく撮影曲は4曲くらいだと聞いたときに、いまの4人になってからの代表曲でさまざまな曲調のものがまんべんなく選ばれるのだろうなと想像した。前日寝る前にまさかあの曲は選ばれないだろう、もし万が一選ばれていたとしても傷つかないようにしなければ、と願った曲がひとつあった。「次の曲も撮影可能曲です」と前ふりされて、ぺい筆紅ミキの順に縦並びになった瞬間にカメラを置いた。それからのことをよく覚えていない。驚きと大きなショックで身体中がこわばって、カシャカシャカシャカシャまわりから聴こえるたくさんのシャッター音がひとつ切られるたびに心臓が冷たくなっていく。何も手に持たず座ったままになった身ひとつの自分はなるべくまばたきをしないように目で好きな人を追った。ぼうぜんだった。本当にこれでいいの?目の前にいる人の姿かたち動き声を何ひとつ取りこぼしたくなく忘れたくなくても忘れていってしまうものをそれでも忘れないように必死に手放さないように覚えているからと何度も誓って忘れないからあなたも忘れないでね、ひとつだけたったひとつどうか消えないでねと願い続けてきたわたしのぜんぶ。ひとりひとつたったひとつ誰もが譲れないものがあるならそれは僕にとっては今日までの記憶。ぜんぶがそうではあるけど、どうしてもこの曲だけは自分の身ひとつで感じたライブでないと意味がないから、映像記録を絶対に見れないし、人の感想もなるべく目に触れないようにしている。意固地で汚くて欲ぶかく気持ちの悪い拘りがどうしても譲れなくて、それが宝物だった。わたしにとってはそれが外部装置でデータでいつでも取り出せるようなものでは意味がなかったけど、そう思っていたのは自分だけだったらしい。この曲がそうやって選ばれたことが悲しくて悲しくてこなごなになってしまった。あちらがそんな風に感じさせたい訳はなく、そんなつもりはないだろうにこういう風に感じてしまってごめんなさい。ミキさんがその日の配信で誰かの動画を見たらしく、「普段客席側から見ることがないから、ぺいちゃんってこんなにしなやかにダンス踊るんだぁ〜って感動した。見れてよかった」と言っていた。そっかあ〜そうだよね。中野サンプラザのあとのことを思い出して胸が苦しくなった。あちらから差し出されたものを喜んで受け取れなかった自分が悲しい。×をつけられたような気持ちだった。目の前が真っ暗になることって本当にあるんだ。「忘れないから忘れないでね」「ほら消えた」「どうか消えないでね」大丈夫だよ、消えないし忘れないと思うよ、みんな撮って記録に残っているんだからいつでも見たら思い出せる。きっとそれが宝物に御守りになる人もいるんじゃないか。終わった後たくさんの人が撮ったありとあらゆるすてきなひふみよの写真が公に溢れることを想像したら砂を噛んだような気持ちになった。ひとの目は自分の記憶にはならない。そんなのはとても耐えられないので目を閉じます。これを文章にすることで少なからず誰かの目に触れて人を傷つける可能性があることをわかっていてもこういう当てつけのようなことを書いてしまう自己中心的なひどい人間でごめんなさい。そのあとはただただじっとステージを見た。ひふみよの間じゅうずっとなんで、なんでという問いかけで脳内が埋め尽くされていたけど、曲が終わったらぜろがゆっくり始まって、撮影可能ライブでひふみよが歌われたという現実がはっきりと残り、自覚して、そこからはずっと涙が止まらなくなった。これは感動して泣いちゃった〜とかでは(ほぼ)ない、受け入れがたい事実が突きつけられたただたた悲しいという感情に対するものだった。きっと恨めしいようなひどい顔をしていて、おそらくあちら側からそれが見えていたと思うので、それは本当に申し訳ないです。

ただずっとそのショックに心を奪われて終わったわけではなかった。撮可の4曲以外に素晴らしいものがたくさん見れたから。こんな書き方をするのは失礼だと思いつつ書いてしまうんだけど撮可の曲たちは撮可用のパフォーマンスだったなという感想です。でも自分がそういう目で見てしまったのも多いにある。この日特に良かった、心に残ったと思ったところはすべて撮影不可の曲だった。

ぺい筆のふたりで曲をやるとフリーライブのMCで匂わされたときに度胸のあるふたりの選曲、のようなことを言っていたから、ふたりでやるには難しい曲を選んでくるのではないかと思考回路とかぜろとかを想像していたけどまさかの勇者。紅さんがメインのようなこの曲をあえて選んでスタンドマイクごと一緒に動いて自由に立ち回るふたりは挑戦的で、すごく格好良かった!「このフィールドでは〜リセットボタンなんてないから」で上手でスタンドマイクぐわっと逆さに上げてノリノリ、そんなような動きをたくさんやっていた。ミキさんの当日のキャスを恐る恐る聞いたらリハのときにこのふたりにもっとやって良いんだよ!殻を破ってと喝を入れたらしい。間奏のエアギターのところをふたりで背中を合わせて曲がったり伸びたり、お互いに弾き合うみたいな楽しそうなところを見れてこちらまで楽しくなった。最後のAの決めポーズまでばっちり。終わってからMCに入り「やっぱうちらはカッコいいかんじじゃなくてかわいい感じなんだなーって思いました」と息を切らしながらぺいちゃんは言っていたけど全然そんなことなくて、むしろ私はこの二人だったらこの日の勇者みたいな立ち回りのほうが好き。ミキが「うちら4人ともかっこいいもかわいいもできるよ!!」と言っていて本当にそうだと思った。He is me,tooのときにこうこうとした光のなかにいるぺいちゃんを見上げた。Cメロで思わず椅子より下にしゃがんで柵の隙間から床に伏して踊るぺいちゃんをのぞくようにして見た。水面で休む鳥みたい。落ちサビでぺいちゃんがほんの少し眉をしかめたと思ったら右目から涙がツーと流れてきて、これより綺麗なものってこの世にないなと思った。ミキと顔を合わせたときの顔を見たらアキカルだから二丁ハロ時代のこととかジジババ期のアトジャのこととか思い出しているんだろうなーと感じた。このときのぺいちゃんがすごく綺麗だったからあ〜ここ本当に撮可じゃなくて良かったって思っちゃった。簡単に共有されてほしくなかった。見返せなくてもわたしの脳裏にくっきりと残ってる。思考回路のダンスがしなやかでキビキビしていて、はじめの耳すまから感じた気合いと勢いとすこしの緊張が落ちついているように見えた。1サビ英語のところかな、終わりまで下1奥に去っていくときの右目をくしゃっとさせた険しい顔初めて見た。間奏の大嵐のなかみたいなダンスの止まりもピタッとしてきれい。落ちサビは以前から少し変わってまた賽子さんのCメロみたいに筆にとりつく3人がスーハー鼓動のように動く。これがひとつの生きもの、生モノ感がすごくてたまらなかったし、このときの息づかいって生だから感じられるものだなと思った。ロボットで空っぽみたいな顔になったぺいちゃんをずっと近くで目で追っていたら全体何が起きたかわからず、最後の紅さんのパートで「意味さえ(ぺい見る)わからない(筆見る)」でふたりの顔をそれぞれ見て語りかけるみたいに、ふるふるした歌声に息をのんだ。この日すごかったのはミキくれによるLOUE。ふたりが呼応し合ってひとつの生き物みたいな、その内側を見せてもらってるような一曲だった。のめり込むように見てしまった。ずっと忘れないと思う。ふたりならではの全編ハモリで圧巻だった。歌っていないときは片方がハモって、それがずっとひとつの歌声みたいにきこえてきた。ミキさんがぺいちゃんの高音Bメロのところを歌えていてすごかった。「いつかLOUEの続きを誰かと作る」を紅さんがメインに大事そうに歌う。そのあと落ち?ラスサビ?をステージの真ん中にふたりが向き合って歌い合うところ、すごいものを見させてもらっていた。ぺい筆の勇者でも同じようにふたりが向き合って顔を見合いながら歌っているところがあって良かったな。歌い切ったあとの紅さんは目が真っ赤でうるうるしていて、この人のこういう純真さが大好きだなと思った。拍手の大きさでやったあ〜ってふたりで身をくっつけて喜んでてかわいかった。筆もぺいちゃんもすごかったって褒めていた、ぺいちゃんはすこし悔しそうにも見えた。たくさん練習したらしい、この日のLOUEを見れて良かった。これ以降は書いたとおりあまり覚えていられてない。青春がきても三原色がきてもなにも動くことができなかった。三原色の1Aでミキさんが途中からオク上高くして歌っていてそこではっとした。LOUEで高音が歌えたことでテンションが上がって挑戦してみたくなったのかもしれない。そのあとの筆も応えるようにオク上で歌っていたのライブ!って感じで良かった。ラスサビの「弱い弱い僕だけど」でぎゅぅと握りしめた拳を前に出してまっすぐ前を見て強く歌うのが超格好良かった。MC ミ「なんかさぁ、今日は撮可のライブだけど、それ以外もすごい良いライブ!」ぺ「そうなの!!私グッときちゃった!He isとかすごい、いろんなこと思い出して、落ちサビでミキティーの顔見たら涙が出てたの」ミ「いつも私たちのライブって撮影禁止じゃん、でも毎回、今まで忘れたくないこととか光景ってすごくたくさんあって、それでも忘れちゃうじゃん、でもこうやってみんなが写真や動画に撮ってくれて、見返したらそのときのこととか思い出せるんだなって」ぺ「うん、わたしもみんなの顔見てたらグッときちゃって、同じライブでもみんな違う角度でいろんな景色を見てて、いろんな気持ちがあるんだなあって。途中で撮るのやめちゃったり、他の人の方が上手だし私なんて、って比べちゃったりしても、大丈夫だから。みんなそれぞれの気持ちがあって良いんだからね、でも誰かの気持ちを否定するのはダメよ」このときの話が心に残っている。この人たちのこういう、誰も置いていかない感じってもうここまでしてくれなくていいよ、わかったよ、って若干もうくどくてお腹いっぱいなくらいというか、例えばAかBか選んでくださいという問いがあったら「どちらも選びたい人がいたら」とか「CやDを選びたい人がいたら」みたいな無いところまで考えてくれる人たちで、もはや変えられないところなんだろうなと思う。この日私はマイノリティー側だったので、舞台の上でそんな話してくれなくて良いよと思いながら、目を見ることをできずただただうつむいて話を聞いた。この人たちのこういうところを歌にしましたみたいな曲だな〜今も尚って。かんたんに言葉にすると「気持ちだった」。最後のぺいちゃんの「がんばれ」、ぎゅうって目つむって魂の叫びみたいでぐっときた。最後の曲は隕石に願いを。さわさわした自然光みたいな光に包まれていた。「ふと思い出すとききっかけは君がいいなんて贅沢すぎるね」でまたぺいちゃんの涙がつぅーって流れて、でもやわらかい顔のまま歌ってる。頭のうしろから漏れ出る光がまぶしくて涙のすじも光っていてほんとうに綺麗だったな。2番の「きっかけは僕がいい」のほうでは笑って歌っていたのもぺいちゃんぽい。落ち「もしもいつか多くの人に讃えられたとしても君があの日くれた小さな花や一言が」で顔をしかめてまた涙を流していたのがキラキラしてた。最後「くだらない毎日をまた作ろうね」でミキがぺいちゃんの顔を見てにっこり肩抱き寄せて、寄り添った4人が自分の視界のなかいっぱいにうつりこんだ。歌い終わって挨拶するとき、ぺいちゃんは八の字眉で自分の涙をぬぐいながらえ〜?ってびっくりしてる感じに笑ってた。この日のぺいちゃんの泣き方はなんだかいつもと違っていて、考えるより先に本能で涙が出てるというか、歌っていて気づいたら泣いてたみたいな感じで、それが素のままっぽくて大好きだった。そんなところを見させてくれて嬉しかった。

ライブが終わって改めてはっきりわかったけど、自分の目で見た光景にまさるものはなくて、その代替えになるものも何もない。写真や映像で撮ることが愛情表現の人もいれば、そうでない人もいて、人の撮った人の視界を許容できない心の狭い自分がいるだけ。

思い出すのは、アイソの10周年のイベント。久しぶりにロープも張っていなくステージのきわで、真夜中に言いたいことも言えないこんな世の中じゃんを歌うぺいちゃんを見たときに、まぶたのラメが光を吸収して緑色に光っていたのがきれいだった。そのときのことを緑のラメ!緑のラメ!とツイッターで文字で騒いでいたら後日、本人に「緑のラメにしてないよ笑」と言われて少し怒った(本人からしたら理不尽な怒りでそれはごめん)。全然そういうことではなかった。それには正確さは(あればもちろんいいけど)別にいらなくて、間違ってたとしてもよくて、たとえば自然光みたいにあたたかい光だったと感じたのが実際には青い光だったとかでもよくて、そのときにしか見れなかった光景も見て感じたことも自分だけのものだから、そういう偶然や運命をたぐりよせるためにこの足で会いに行くのだとおもう。わたしはそのやり方しかできない。全部わかって寄り添ってくれなくて良いし人に迷惑をかけないし誰のことを否定もしないから、その自由だけください。「悲しませるために何かを選択するということはない」って、言われなくても重々承知していて、わかっているのに悲しんでごめん