僕のひとつだけ たったひとつ どうか消えないでね

6年

 

 

2023年8月23日、ぺいちゃんに出会ってすきになって6年。

 

6年とは小学校入学した子どもが中学生になる時間と同じで、あっという間のようでいまの自分に置き換えると人生の5分の1の時間にあたり、そんな時間をただただたったひとりの人のことを大好きだって気持ちだけでここまできてしまった。いつのまにか一年のなかで誕生日よりなによりこの日が一番特別な「記念日」になった。スタッフさんにライブ後に記念日なの?って聞いてもらってはっとしたのだった)またこの日を同じアイソトープラウンジのフリーライブで迎えることができ、ステージに立つぺいちゃんに会えるというのは言い尽くすことのできない特別な気持ちで、迎えるまで楽しみでそわそわして期待しながら日々をすごしていたけど、実際当日を迎えたら、筆舌つくしがたい予想もしてなかった気持ちになった。

当日、仕事をなんとか理由をつけて上がらせてもらう。6年前出会った日もそうだったけど、毎年忙しくなるこの時期にどうしても今日だと思って夜遅くに無理矢理会いに行ったから毎年こんな感じ。あのとき無理してなかったらきっと出会ったのはもっともっと遅かったと思うし、必然的なタイミングだったのだと思う。残暑に出会ったから今年は家を出た時のあちー!感が去年よりあんまりなくて少し物足りなさも感じた。向かう電車に乗る時の夕焼けがきれいでそこは去年と似てるなあとか、特別な日の特別なことや似ているところをいちいち探しながらすごす。懐古厨この日だけはゆるしてほしい。

会場にいちばんに入った。こういうことあまり書くべきじゃないかもしれないと思いつつこのことはどうしても書いておきたいんだけど、チケットの当落が出た当日の朝にお友達が、ぜひあなたにとっての特別な日に特別な場所で見てください、そうしてもらえたらわたしもうれしいとわざわざDMをくれた。前日までずっとソワソワしていたわたしのことを慮ってくれたうえでの優しい心づかいがうれしくて涙がでた。1番をもらえた嬉しさもあるけど、自分をさしおいて他人に良い思いをしてもらおうという人がいるのがすごいことだと思った。6年のなかで良くも悪くも目立っていて少なくない人数の人に好かれていないであろうことはなんとなくわかっているし、ここに私がいなければと、目に見えないそういう人たちに申し訳なく思いながら今もここにいるというのがあるので、そう思ってくれる人がいたことにびっくりした。本当にうれしかった

何度か立ったことのある場所に立ってはじめに思ったのは、もうこの会場でこの場所でぺいちゃんを見ることってできないのかもしれないなということだった。2019年にいちどもうこの会場でイベントをすることができないくらいの規模感になったのが、色々なことが変わり世の中が変わり、またこうしてこのタイミングでそれが叶ったけど、来年はどうかわからない。希望としては一年後にはまたそうなっていてほしい。

一曲目が耳すまでぺいちゃんがステージに出てきたのを見ただけでいつもの耳すまとは違って、あっ…となった。今までに何百回も見た光景がちかちかフラッシュバックしてちょっと泣いた。パラレルヤワールドで「なんかいつもとちがう」とおもった。わたしにとってはぺいちゃんに出会って6年の特別な日だけど、ほかの人たちにとっては19日のノスタルジスター東京公演を終えたあとの余韻がたっぷり残った日だった。普段なら熱を帯びた激しめのパフォーマンスが見れる曲もそうでなく、でもそのことが調子がわるいとか力を抜いているとかでもなく、穏やかで心が落ち着いているように見えた。「"全て変わった"ように見えるけど何ひとつかわっていないのか 何も変わらないのに全て変わったのか」にはっとする。いつもなら強く指さしして名前を呼ぶところでうまくそれができなくてただただ目の前にいるぺいちゃんを見てた。「今の僕があるんだから」も全出力!って感じではなく目を閉じて噛み締めるような。最後のミキぺいが向かい合うところ、「何ひとつ変わらない」だけはふたりがうなずき合うような爛々としたかおしてて、それが答えみたいだった。そのあとステージがすこし暗く青くなって、ノスタルジスターのイントロが流れてきたときに涙がぼろぼろでた。それが主題のツアーをやったばかりで聞けるとは思っていなくて、(と言いつつ、ライブ前にそわそわお友達と曲を予想しながら逆にやるかもねとも話していた)嬉しかった。どうしても聴きたかった曲うちのひとつ。ツアーでは2回ノスタルジスターを見れたけど、そのどちらとも違うノスタルジスターだった。なんだろ、やわらかい布で丁寧に包まれた箱のなかを見せてもらうような。ぺいちゃんは終始やさしい穏やかな顔をしていて、体半分はまだキネマ倶楽部にいるようなそんな余韻を残しているように見えたし、わたしもそうだった。

自分にとってのこの人を好きになってからの6年というのは、「綺麗故に消える美しさよ あの時に戻って描きとめてみたい君を」の体現でもあった。消えてしまう一瞬にあらがってその時どきの一枚を残すことを淡々と続けてきたら気づいたら6年、これがわたしが情けなく縋りついているたった一つ。前日に今までに描いた下手くそな絵をかき集めて振り返っていると、ひとつ見ればそのときの空気・におい・感じたこととか全部思い出せた。自分の記憶の保全のためだけとしても続けてきてよかった。続いたのは結果であって、そうさせたのは絵の中にいるただ

ひとりの人が、歌うことでわたしを離さなかったから。この歌詞の部分でいつもぺいちゃんに手を差し伸ばすけど、かなり多くの場合フォーメーション的に誰かが被って姿を見れない(普段高確率で上手か下手の最端っこで見ているため)。この日は0だから大丈夫だった。歌う筆村の真後ろでなく一歩ずらした場所で踊ることで正面からも見れるようにしてくれた天才振付師ありがとう。筆村の歌唱もやさしくて、あたたかく笑うぺいちゃんに伸ばす手が震えた。特別な光景だったはずなのに、涙で視界がぼやけて、夢だったかもともすこし思う。

三原色があったのも嬉しかった。落ちサビでセンターステージにしゃがむ筆村がかなりそり出ているのを感じてこんなに近かったっけ!?って驚いて腕を伸ばす。でもなぜか奥にいるぺいちゃんは遠くにいるような気がして。ファインダーの向こう側には両翼のふたりにスポットが当たっている分、暗がりのなかでくしゃーっとした笑顔。前にも同じ場所で同じ景色を見れたことがあって、でもその時と今は全然違うんだということを感じた。そんな瞬間がいくつもあった。目が合わないで遠くを見るぺいちゃんを見上げ、カエルの2Aで押し出されてももう絶対前に出てくることはなく特に目の前に自分推しがいると特別なことはないように配慮されているのがわかる。そういうことに安心している自分もいるし、昔と比べてさまざまなものが変わったことを寂しく思ってしまう気持ちもあった。ステージとフロアの間にはしっかりとした境界線が一枚の壁のように隔たっていて、いつもは見えにくいけど、この日はそれがはっきりと見えた。いちばん近くで見ていたはずなのに遠くに感じて、そのことを誰にも言えなかった。

変わらずここにいれることをありがたく嬉しく思う反面、変わらない自分のままでいることがこわい。「君の存在で人生オールオッケーってわけじゃないから寂しい日もあるんだけど」なのは確かにそうだけど、きっとそれだけじゃない。あんまりよくわからないし、考える時間も全然ない。来年も手を伸ばした先に好きな人にいてほしいし、ここでない場所にいたいとも思う

来年はなにかが変わっているか、変わっていなくてもそれが良いと思えますように